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プロフィール
中島J.修平(なかじまジェームズしゅうへい) 1951年長野県生まれ。米国アズサパシフィック大学神学部および大学院修士、フラー神学大学院修士・博士課程卒業。神学博士。ドイツ・ハイデルベルグ大学神学部研修。過去20年余、妻の中島美知子医師との学際的協力により、日米でターミナルケアの研究と臨床に携わる。救世軍清瀬病院ホスピスの初代チャプレンを務める。国際ニューホープホスピス研究会会長。現在、東京・清瀬市の医療法人社団ホスピティウム聖十字会専務理事、在宅ホスピス中心の医療法人中島医院チャプレン。 |
●プロとして、死生観を自己形成し続けること
みなさんは、ナースとして感染症の患者さんのケアをする際には、自分への感染を防ぐことにも十分気をつけていらしゃると思いますが、はたして「死」に対してどれほどの自己防衛をされているでしょうか?
本物の「死」は感染症と比較にならないほど、ものすごい感染力と負のパワーを持っています。そんな「死」に対して、無防備に接してしまうのは、感染症のケアを素手で行うようなものです。死の床についた患者さんの声、「ソバニイテクダサイ」「モットソバニ」「モット」「サビシイヨ」「イタイヨ」「コワイヨ」「クルシイヨ」。それはまるでブラックホールのように、まわりを巻込んでいきます。ある意味、死の呼ぶ声ですね。純情で真面 目な若いナースほど、「死」のケアにのめり込んでしまうことが多いようです。
ただ私は、若いうちはのめり込むぐらいがいいと思っています。恋愛感情に近いぐらいの気持ちでケアができるということは、ナースとして大切な資質ではないでしょうか。勤務時間を終えても、ついその患者さんが気になって、私服でケアをしていたナースを私は何人も知っています。若い時は、それぐらい患者さんに一生懸命になる経験が、2人や3人あってもいいと思います。
けれど、そんな経験を通して、シシリー・ソーンダース先生がおっしゃった「プロフェッショナル・フレンドシップ」というものを確立してほしいと思うのです。医療者と患者さんとの関係を超えた、人間同士の関係を築くこと。しかしその関係は、職業上の教育・訓練を受けたプロとしての一線を決して崩さないこと。それがターミナルケアに大切なことだと思います。患者さんにのめり込み、恋愛感情にも似た気持ちでケアし、その死によって悲嘆にくれることも、「プロフェッショナル・フレンドシップ」を体得するための、一つの過程で あってほしいのです。
そのために大事なことは、死生観を自己形成し続けること。自分の心の中で生まれ育んだ死生観、「死」は恐ろしものだけれど、それを乗り越え、患者さんが人生を完成させるお手伝いをする。そんな健全で前向きな死生観を養うことが、プロとしての一線を保つことを可能にします。借り物でない自分の死生観が、職業人としてのみならず、自分自身を守ることにもなるのです。
自分自身の死生観を形成する一つのヒントに、この本がなれればと思います。
●子どもへの「死」のケア
私はたくさんの親族をがんで失っています。最初に肉親の死に立ち会ったのは5歳、祖父の死でした。亡くなったと部屋に呼ばれていった時には、祖父はすでに蒲団に寝かされて、横顔がまっ白だったことを覚えています。白い顎鬚をたくわえていた人だったのですが、それとあいまって強烈な印象でした。幼少時の体験として本物の死とぶつかったのです。それが私の死生観・人生観にずいぶん影響しました。その時直感的に、幼児ながら感じたのは、人間はどういうコースをたどるにしても、みんな「死」に行き着いてしまう、ものすごい虚無感、虚しい気持ちでしたね。
私は祖父の後を追おうと思ったのです。可愛がってくれた祖父のいない寂しさと、死んだらどうなるのかという興味――「死」の持つパワーですね。ブラックホールのようにまわりのものを巻込む、圧倒的な力に引かれたのかもしれません。痛くないように柔らかい紐を探し、その頃よく見ていた西部劇の絞首刑を真似して、首を吊ろうとしました。いざ、紐を首にかける時になって、それが母の着物の紐だと思い出し、はらはらと泣いてしまったのです。僕が死んだらお母さんが悲しむ――と。それで自殺は思い止まったのですが、その瞬間「死」というものに、初めて向き合っていたのだと思います。
この本にも書きましたが、小児こそ「死」というものに、正しく向きあわせてあげなければならない。本物の「死」の強烈なパワーは、大人も子どもも容赦しません。薬なら小児用がありますが、「死」は小児だからといって、軽くすることなどできないのです。逆に、大人のほうが「死」の現実から、多少なりとも目をそらす知恵を持っていますが、子どもは、もろにぶち当たってしまう。私が紐を首にかけたように、まさに「死」に直面 してしまうかもしれない。小児自身が患者さんの場合もあるし、小児の家族が患者さんの場合もある。ですから私は、患者さんの家族に小児がいると特別 なケアをします。
小児にこそ、「死」というものを正しく理解させてあげる配慮、ケアが非常に重要なのです。
●チャプレンとしての「最初の仕事」
23歳の時、母をがんで亡くし、それに仕事の過労が重なり、自然気胸で入院しました。その病院には、生涯のパートナーとなる妻、中島美知子医師がまだ研修医として勤めていたのですが、ある日彼女が私の様子を見に来た際、「肺がんで今日亡くなられた患者さんを、解剖させていただいていたの」と話しかけてきたのです。彼女は、担当していた患者さんを自分の手で解剖することに、少なからず緊張していたようですが、彼女の話を聞きながら、私は解剖室、ひいては霊安室が実は自分のベッドの真下にあることに動揺してしまいました。患者同士として寝間着姿で、気安く言葉を交わしていた人が、ある日いなくなってしまう。その人は、実は自分の真下で解剖され、ご遺体として運び出されるのだ。その時まで病院の出口とは退院する正面 玄関だと考えていた私に、病院にもう一つの出口があることを知ったのは衝撃でした。
患者同士の気安い会話からか、患者さんやその家族の悩みを垣間見てしまうことが多々ありました。妻の看病疲れからか、髭はボウボウで目もギラギラして痩せこけていたAさんが、こんな話をしてくれたのも、私ががん患者の遺族であり、年若い牧師だという気安さだったのかもしれません。
Aさんの妻は若い頃、たった1回浮気をしたそうです。お互い暗黙のうちに許しあってきたつもりだったけれど、このままでは死に別 れられない。一度でいいからはっきりと謝ってほしい、そのことがいちばんの心残りだと、Aさんは思うようになったのだそうです。けれど一生懸命病気と闘っている妻に、こんな事はとても自分からは言えないとAさんは悩んでいました。私は、そのことを本人に取り次ぐことになりました。私には、彼女もそのことを思い悩んでいるように思えてならなかったからです。取り次いだ後、彼女はAさんを枕元に呼びました。気管切開し人工呼吸器を施され、すでに声を出すこともできませんでしたが、渾身の力を込めて彼女は書いたのです。「ごめんなさい」という6文字を。それからAさんは変わりました。髭も剃り、身ぎれいになって、目の光も穏やかになりました。彼女が亡くなられた後、偶然エレベーターで会った時、「あの時、光が見えました。ありがとうございました」と優しく微笑まれました。
今から30年ほど前の当時、末期の患者さんへの虚偽の告知は当たり前でした。ご家族は患者さんを励ましながら、嘘をつかなければならない苦しみを抱えていました。昏睡状態に陥っていると言う夫の前で、その苦しみを話してくれたBさんもそんなご家族の一人です。嘘をつき続けることがもう辛いという彼女を慰めるように「でもいいですよね、ご主人は。もうすぐ天国へいらっしゃるのですから。それより奥さんが大変ですよね」と私が言ったときのことです。深い眠りに陥っていたはずの夫が、私たちの方を向き、パッチリと目を開け、ニッコリ微笑んだのです。その時私は確信しました。彼が聞きたかったことは、「自分はこれからどうなるのか」、まさにそのことだったのだと。
この入院の日々が、私の一生の仕事を決めました。

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